社では、革や布で作られたフランス製の手縫いのボディに、おおむねドイツ製のパピエマッシェのヘッドを付けて人形を組み立てていました。ピエール・フランスワ・ジュモーの織物商での経験と独創的な才能は、”Belton & Jumeau”社で人形の衣装作りに生かされました。
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1841年の始めに結婚したジュモー夫妻は、1841年11月26日、一人目の息子(Eugene-Georges/アジェン・ジョルジュ)を授かりました。ピエールは、新しいビジネスと新しい家族の中でとても幸せでした。彼の周りの全てが、良い方向に向かっているようでした。ピエールは、大家族を作りたいと考えていました。その後、1843年4月18日に次男 (Emile-louis/エミール・ルイス)が生まれ、彼のその夢は現実となってきたのです。二人の息子の誕生は、父ピエール・フランスワ・ジュモーに大きな喜びをあたえました。
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しかし、この幸福の真っ只中に予期せぬ悲劇が襲いかかります。1843 年4月8日、ピエールの妻・アメリーの妹が、不慮の事故で亡くなったのです。そして、次男出産後の容態が思わしくなかった妻・アメリーは床につき、次男出 産後のちょうど一ヶ月後にその短い命を終えたのです。1843年5月18日、アメリー・ジュモー 23歳でした。ピエールとアメリーの幸せな結婚生活は、 たったの3年で終わりを告げたのでした・・・・
誰がこの時のピエールの悲しみを想像できた事でしょうか。彼はどんなに辛く、苦しかった事でしょうか・・・
ベ ルトンとエリセー家の友情と暖かい励ましを持っても、このような厳しい試練のピエールを慰めるには不十分でした。愛する妻を亡くし、深い悲しみの中でピ エールは、二人の幼を連れて父の居る故郷レマラードへ帰ることにしました。そして、ピエールの父とその後妻に、子供を預ける事を決めたのです。(ピエー ルの実母は彼が26歳の時に他界)ピエールの父とその若い妻は、彼の悲しみが癒えるまで、二人の孫たちの世話をすることを承諾してくれました。
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ピ エールは若い頃、大切な母を亡くし困難な生活に直面しながら、自分自身の道を見つけ出しました。そして今、最愛の妻が亡くなり、再度行く道を見失ったので す。しかし、ピエールのこの辛い試練は、彼の長い人生の中で新たな閃きと知恵をもたらし、彼を未来に導いてくれたのでした。ピエールは自分の気持ちを整理 するために、仕事に没頭しました。
一方ベルトンは、自社製品を促進する事の重要性と、その品質は会社の成長と成功によって量られると意識したのでした。そして、”Belton & Jumeau”社は、次の年(1844年)に開かれる、産業博覧会に参加することを決めたのでした。